富士山初冠雪の2日前のこと。 以前から関心を持ち続けていた長崎県南島原市にある¨原城¨に行ってきました。
1637年、飢饉や重税に耐えかねた有馬や天草の領民たちによる島原・天草一揆が勃発した舞台になった所です。 キリシタン農民38,000人に対し幕府側12万人。 幕府側の総攻撃を受け全滅したという歴史的な「原城」です。 潜伏キリシタン関連遺産として世界文化遺産になっています。
仕事の関係もあり羽田を朝の便で発ち翌日の夕刻には戻るという強行軍でしたが 長年の念願がかない満足の旅(?)になりました。
長崎空港には昼前に到着。 レンタカーを借り南島原市にある¨原城¨を目指します。
道中雲仙を経由しますが 関連あるということで立ち寄ることにしました。
島原半島はキリシタン大名有馬氏の治下でキリスト教が栄えましたが 禁教時代になると 迫害の地へ変貌していきました。 ここ雲仙では1627年から5年間 雲仙地獄が迫害の道具として使われました。 キリシタンに信仰を棄てさせるため拷問・処刑が行われました。 熱湯をかけたり 煮えたぎる湯壺の中に投げ込んだりしたという・・・
キリシタン殉教の碑
長崎空港からおよそ2時間で目的地「原城」に到着。 検索してある程度認識はしていましたが 長い間想い続けていただけにその場に立つと感慨深いものがあります。
天草四郎たちが籠城した原城跡には随所に乱の痕跡が残っています。
天草四郎像
若い四郎(16歳)は一揆勢に大将として担ぎ上げられて神格化されていったのかもしれません。 落城後に捕らえられて斬首され長崎でさらし首にされたと記されていました。
天草四郎の墓
佐分利九之丞は鳥取藩池田家の家臣で使者として息子らと共に有馬の地に来た人物。 幕府軍の総攻撃の時に討ち死にしたと記してあります。
幕府軍は城内の兵糧が尽きたとみるや 2月27日総攻撃を開始。 翌日、原城は陥落しました。 一揆勢のほとんどが戦死し生き残った者も老若男女問わず処刑されました。 幕府は原城を徹底的に破壊しました。
2008年3月24日付のブログ「長崎街道の温泉宿場町」に 剣豪¨宮本武蔵¨の名を記していましたが その記述には幕府軍として¨原城¨に討伐に行く途中に立ち寄ったとありました。 「そうなんだ~」と漠然ながら同じ空間にいる自分を重ねているような不思議な気持ちでいましたがその「原城」の記述に宮本武蔵が載っており リアルに自分の中で何だか¨点と点¨が結ばれたような感覚に満たされました。 ただその戦いの中で「宮本武蔵は一揆勢が投げた石があたり退散した」とあり・・・ それを知った時ちょっと微妙な気持ちになったのかな ??
長崎空港を離陸。 眼下に波おだやかな大村湾
アクセスを考えると簡単には現地に行こうと思えないのですが 今回トンボ帰りにしても実現できたのは LCC のキャンペーンのおかげでした。 ひとりの片道分の航空運賃よりも安く2人が往復が出来たことでした。